築城年代は定かではないが三刀屋氏によって築かれた。尼子十旗の一つ。
三刀屋氏は清和源氏満快流で承久3年(1221年)諏訪部扶長が出雲国三刀屋郷の地頭職を得て、16代為扶の時に三刀屋氏を名乗った。 この時居城として築かれたのがじゃ山城(石丸城)であり、その支城として築かれたのが現在の三刀屋城(城山)で、戦国時代にじゃ山城(石丸城)から三刀屋城(城山)に本拠を移したといわれる。
天文11年(1542年)周防大内氏が出雲の国人衆を率いて出雲に侵攻すると、三刀屋氏もこれに降り、尼子氏の居城月山富田城へと侵攻する。 しかし出雲国人衆は尼子氏に再び寝返り大内氏は嫡子義房を水死させる大敗を喫した。
永禄5年(1562年)毛利氏が出雲に侵攻するとこれに降り、以後毛利氏に属して各地で転戦したが、天正16年(1588年)三刀屋久扶は毛利輝元に随行して上洛したが、このときに徳川家康の招きに応じて面会したため、毛利輝元から内心を疑われ領地を没収された。
その後、出雲に堀尾氏が入部すると支城の一つとして石垣造りの山城へと改修されたが、一国一城令によって廃城となった。
三刀屋城は比高80mほどの山にあり現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にあり、その西の稲荷神社があるところが二の丸とされる。高低差はあまりなくL字になった石塁で区画されている。主郭の周囲には道路に面した部分などに石垣が点在しており矢穴のある石も露出しているが全体的に埋もれているような感じである。
西尾根を遮断する堀切は大規模な二重堀切で駐車場のところから入っていくと到達できる。そこから北側面を迂回すると北の腰曲輪に達し、竪土塁を伴う腰曲輪にも石垣が確認できる。
主郭から東へ降りて行くと伝天神丸であるが、曲輪はほぼ傾斜しており果樹園になっていたようである。
山頂まで車道が通じているが駐車場は少し下のところにある。道は狭く離合困難であるので運転に自信のない人は、川向いにある駐車場に駐めて歩くのが無難である。
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