築城年代は定かではないが元弘2年(1332年)頃に湯荘留守職の諏訪部扶重によって築かれたと云われる。 後醍醐天皇が隠岐へ配流されたさいに同行した湯庄の富士名判官義網の留守中に、諏訪部扶重が築城して反乱を企てたがこの争乱で焼失した。
その後、出雲守護佐々木泰清の七男頼清が湯氏を称して城を改修し居城とした。 その後の動向は定かではないが、天文11年(1542年)には湯佐渡守家綱の名が記録に残り、その古墓が城内の一角に残る。また、永禄元年(1558年)の玉作湯神社棟札に地頭代湯菊丸の名が残る。湯氏は尼子の重臣となった家系が亀井茲矩で因幡国鹿野藩、石見国津和野藩の家系として続いた。
玉造要害山城は玉造温泉街の奥にある玉作湯神社の背後の丘陵に築かれている。
帰路につく前に温泉でゆっくりしていこうと思って久々に玉造にきた。ついでに城山に登ってみようと思ったのだが、この季節は五時前には既に陽が傾き、竹林という悪条件もあってゆっくりと見て回る余裕はなかった。写真を見るとそれほど暗くないように思えるが、最近のカメラの性能は高感度に優れており、肉眼ではほとんど見えていないものが意外とくっきり写っている。予想以上に高い切岸と土塁、深い堀など良く残っているので、また機会を見つけてじっくり散策したい。
玉作湯神社から遊歩道が主郭まで通じている。
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