築城年代は定かではない。応永年間(1394年〜1428年)に大塚氏がこの辺りを支配して龍子山城を居城としたと云われる。
大塚氏の出自は詳らかではないが佐竹氏の一族あるいは小野崎氏の一族とする説もある。多賀郡大塚郷を発祥とし菅股城主であったが、龍子山城を築いて移ったという。
大塚氏ははじめ佐竹氏に従っていたが、文明17年(1485年)岩城常隆が侵攻して車城を攻め落とすと岩城氏に従った。その後は代々岩城氏に従っていたが、戦国時代末期に佐竹氏の勢力が拡大すると佐竹氏に従った。慶長元年(1596年)大塚隆通のとき、陸奥国楢葉郡折木へ転封となる。慶長7年(1602年)岩城貞隆が所領を没収されると、大塚氏は伊達氏の家臣で陸奥国角田城主の石川昭光を頼って家臣となった。
慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田へ転封となると出羽国角館から戸沢政盛が四万石を領して小川城へ入り、慶長11年(1606年)龍子山城を改修して松岡城と改称して居城とし、松岡藩となった。元和8年(1622年)出羽国山形の最上氏改易により出羽国新庄へ六万石で転封となった。
戸沢氏の後は水戸藩領となり、付家老中山氏の所領となった。宝永4年(1707年)中山氏の所領が太田へ移されると太田へ移ったが、享和3年(1803年)再び高萩地方を知行することとなり、松岡館が再建された。
龍子山城は現在の松岡小学校とその背後に聳える標高57mの龍子山に築かれていた。
中世の山城が龍子山城で、戸沢氏の時代に麓の城が改修され平山城へ、さらに江戸時代には中山氏の政所として平城に近い形へと変貌したようである。
麓の松岡小学校や西隣の公園の周りに土塁と水堀があり、小学校の中には土蔵が現存している。
山城の部分は遊歩道が整備されていたようであるが、現在は酷く荒廃しており遺構を見て回るのが難しくなっている。主郭に至るまで、井戸が二箇所あり、そこには標柱があるものの、主郭や他には見あたらない。主郭は土塁があり、穴が点在、空堀も残っている。主郭部から西へ進んだ尾根に岩を垂直に切り落とした堀切があり、これを下から見学したいと周りを探したが降りていく方法が容易に見つからず、日暮れで時間切れとなり撤収となってしまった。小学校周辺や城下町の維持整備には力を入れているようで、雰囲気の良い町並みとなっているが、山城部分は残念ながら荒廃してしまっている。遺構も良好なので、少々残念である。
土蔵(移築 倉庫)
小学校の西にあるアプローチ広場、あるいは南の城下町入口の所に公園の駐車場がある。山城にはアプローチ公園から北へ入っていけば遊歩道がある。
最寄り駅(直線距離)