築城年代は定かではない。
応永30年(1423年)角館能登守利邦が小野寺氏に通じて謀反を起こしたため、門屋城主戸沢家盛に攻められ落城、応永31年(1424年)家盛は居城を門屋城より移し、以後代々戸沢氏の居城となったという。
戸沢氏は小野寺氏や安東氏(秋田氏)などと戦って勢力を維持し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣して本領を安堵され、同年藤田信吉による検地が行われ四万四千三百五十石余となった。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦では東軍に属して上杉氏を攻撃した。戸沢氏は慶長7年(1602年)常陸国小河城に四万石で転封、慶長11年(1606年)常陸国松岡へ移り、元和8年(1622年)出羽国新庄へ移り明治まで続いている。
戸沢氏が角館を去ると秋田へ入部した佐竹氏の家臣葦名盛重(義広)が常陸国江戸崎より一万五千石で入部し角館城主となったが、元和6年(1620年)一国一城令によって廃城となった。 葦名氏は三代で断絶し、明暦2年(1656年)佐竹北家の佐竹義隣が出羽国紫島城より角館に入り、「みちのくの小京都」と呼ばれる町並みを整備した。
城は角館の町の北にある古城山に築かれている。本丸と思われる山頂の広大な平地に石碑が建てられているが、整備されているのはこの部分のみで、駐車場から登山道を登ってきたが荒れ放題である。
角館は「みちのくの小京都」と呼ばれ、今でも武家屋敷が列び一部公開されている。