延元3年・暦応元年(1338年)北畠親房によって築かれたと云われる。
延元3年・暦応元年(1338年)奥州の軍勢を率いて西上し、北朝方の軍勢と各地で転戦し奮戦した北畠顕家も和泉国石津の戦いで討死した。南朝方は勢力の挽回を図るために顕家の弟北畠顕信を鎮守府将軍に任じて、義良親王・宗良親王を奉じて奥州に下向、顕信の父親房もこれに同行した。伊勢国大湊から海路陸奥に向かう途中、遠州灘にて暴風に遭い、顕信と義良親王の舟は伊勢に引き戻され、親房の舟は常陸国東条浦に漂着した。こうして親房は南朝方の東条氏に迎えられ神宮寺城に籠もった。
神宮寺城を拠点として南朝方勢力の地盤を築こうとした親房であったが、北朝方勢力の佐竹氏や大掾氏などの軍勢によって攻められ神宮寺城は落城、親房は阿波崎城、小田城、関城、大宝城へと次々と追われた。
阿波崎城は台地の北端に築かれている。 現在城址には「准后北畠親房卿城趾」の碑が建っており、天満宮が鎮座している。