築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に菊池氏によって築かれたと云われる。 菊池氏は太宰府官藤原政則の子孫とされ、藤原則隆のときに肥後に下向し菊の池城を築いたという。十六代菊池武政のとき、菊の池城から隈部城へと居城を移した。
南北朝時代には南朝の有として肥後国を中心に九州全土にその勢力をのばしたが、北朝方の今川了俊が九州に下向してくるとその勢力は衰退した。
兼朝の時、肥後国守護職を回復し戦国時代に続くが大友氏に破れ嫡流が途絶えた。 菊池氏が滅亡すると赤星氏の勢力下になるが、隈部氏によって追い出され、隈部館から隈部氏が移り居城となる。
隈部氏は北侵する島津氏に降伏したが、豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降伏し本領を安堵された。しかし熊本に入封した佐々成政が検地を行うとこれに反発して挙兵し、成政が菊池城に押し寄せると城村城に籠もってこれに対抗した。これがきっかけとなって肥後国衆一揆が広まり、成政は謹慎の後に切腹、隈部氏もまた嫡流は断絶した。
菊池城は現在の菊池神社の境内に築かれていた。神社の境内にある宝物殿への入口に石碑が建っている。
菊池城の遺構の大半は消滅してしまっているが、神社の北側に巨大な空堀と高土塁が残されている。
菊池武光像が市民広場にあり、墓が正観寺(地図)にある。
菊池神社の駐車場がある。