築城年代は定かではない。 菊地氏の家臣城氏の居城という。
天文19年(1550年)熊本古城の鹿子木寂心が菊地義武を助けて大友氏に叛いて没落すると、城親冬は城村城から熊本古城へ移り、一時廃城となっていたが、その後に隈部城に入った隈部親永の子親安が城村城に入ったと云われる。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後国に入部した佐々成政は秀吉によって禁止されていた検地を実施すると、隈部城の隈部親永はそれに反発、佐々成政によって隈部城を攻められ落城し逃れた。その後、隈部親安を中心とした国人一揆衆が城村城に籠城して佐々成政に対抗する。成政は付城を設けて城村城を包囲したが、居城の熊本古城が国人一揆衆によって攻められ引き上げた。秀吉は小早川秀秋や立花宗茂に成政救済を命じ、結局は城村城を明け渡す事で和議が成立した。
城村城は岩野川の西岸にある台地の上に築かれている。
台地の北東端を本丸とし、南に二の丸、三の丸などを配していたという。本丸は公園で石碑と案内板が設置されており、南の二の丸との間にわずかに低くなった空堀跡が残る。また集落内には「大手原口」などの看板も設置されており、「城」集落全体が要塞であった。
「城」集落に入り城菅原神社の鳥居を越えて真っ直ぐ東へ進むと案内板がある。この案内板の辺りに駐車可能。その先を北へ進めば本丸がある。