築城年代は定かではないが大永・享録年間(1521年〜1531年)に鹿子木親員によって築かれたと云われる。
その後は城氏の持城となったが豊臣秀吉の九州征伐の後は佐々成政が肥後一国の領主として入部する。しかし佐々成政は国人衆をまとめきれず国衆一揆の責任を問われ摂津尼崎で自刃する。
佐々成政にかわって加藤清正が北肥後に入部すると、千葉城と熊本古城を含む広大な敷地に熊本城を築いた。
古城堀公園付近が古城跡であるが、完全に近世熊本城に含まれてしまっている。昭和初期までは古城堀と呼ばれる水堀が現存していたらしいが、現在ではほとんど埋没している。