築城年代は定かではない。 天文年間(1532年〜1555年)の城主は亀井光総で、豊後国の大友氏と結んで菊地氏と敵対していたが、天文19年(1550年)菊地義武は熊本古城を攻め落とし、さらに亀井城へも押し寄せ城主光総は討死して落城したという。
その後、光総の子吾助が出家して菩提を弔う為に寺を建立したのが光照寺の始まりと云う。
光照寺付近が城址で、台地の西端に辺り、東側より一段高い地形となっている。城郭体系によれば北側の裾部に堀が二条残っているらしいのだが、お寺の北側を確認するも存在しなかった。住宅地に埋もれて残っているのだろうか。
お寺の案内板の脇に亀井城石垣の石碑が建ち、お寺の西側に高さ1m余りの石垣が組まれている。ただし西側は民家の庭であるため、降りて確認するわけにはいかず、迂回して民家の門脇から確認するしか方法はなさそうだ。