築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)頃に池田氏によって築かれたと云われる。 池田氏は遠江国の豪族で池田源三郎快光は平頼盛に仕えていたが、文治元年・寿永4年(1185年)平家が壇ノ浦で敗れ、快光の子彦太郎秀盛と弟四人が庄内に落ちのびたという。
戦国時代の城主は池田讃岐守で所領百二十貫文で五十騎の大将であったといい、武藤義氏に仕えていた。天正11年(1583年)東禅寺が尾浦に背いたときには義氏に味方したが、義氏は自害し讃岐守の所領は没収された。しかし、その後間もなく所領を得て最上氏に仕え、本庄繁長が庄内を制圧したときには朝日山城には最上氏の家臣東海林が籠っていたが、激戦の末落城して東海林兄弟は最上へ逃れ、讃岐守は降伏して所領を安堵された。 天正17年(1589)上杉氏の検地に対して一揆となったとき、讃岐守は一揆方に助力して朝日山城は一揆方の拠点となったが敗れ讃岐守は最上の真室川に逃れた。
慶長5年(1600年)讃岐守は最上より戻って再び一揆を起こしたが酒田城代志田修理に敗れた。その後庄内が最上氏の所領となると志村伊豆守の家臣として百石を与えられたという。
城は八幡神社の東の山頂にあり、八幡神社の境内にも城郭遺構が残る。
楯山山頂部は東西に二郭あり、東部は東尾根を二重の堀で遮断して、南の頂部から北に向かって段々に削平地を列べている。西部は薮化している所が多く良くわからないが、頂部は広い削平地となっている。
八幡神社は神社背後の北西に伸びた尾根に数段の削平地が残っている。
八幡神社までは車道が付いている。ここから登ってもよかったのだが、一旦おりて、北側の谷にある太田神社から登った。太田神社脇を登って行くと砂防ダムがあるが、そこの南側から道が付いている。
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