築城年代は定かではない。永禄11年(1568年)以前に宗像氏によって築かれたのが始まりとされる。
永禄11年(1568年)筑前を巡って大友氏と毛利氏が争うと、小早川隆景が笠木城の修築を佐藤元実と井上元継に命じており、翌12年には佐藤元実に兵粮搬入を命じ、立花山城を巡って攻防が拡げられた。
立花山城を落とした毛利勢であったが、旧尼子勢の蜂起や大内輝弘の山口乱入など中国地方での情勢が悪化すると、立花山城に乃美宗勝、坂元祐、桂元重とわずかな軍勢を残して九州から撤退、立花山城に残った軍勢も年末には大友氏に城を明け渡して退いた。
毛利氏が九州から撤退すると大友氏は入田義実に笠木山城の普請と在番を命じている。
天正年間(1573年~1592年)には大友氏が耳川合戦で島津氏に敗れると、秋月氏が挙兵し、このとき笠木山城も秋月氏の手に落ちた。
笠木山城は標高425.1mの笠置山山頂に築かれており、現在は登山道が整備され、主郭一帯は展望も開けている。
主郭は南端最高所でそこから北東に伸びた尾根に曲輪を展開しており、奥尾根は多重堀切、概ね北側面に畝状竪堀群を設けている。
主郭は南端I1で北側面に広いI2があり東に虎口を開く。虎口の外側は斜面になっているが細い道が通じていたと思われ、北尾根のI3と繋がる。I3部分は尾根を完全に削平せず、中央に尾根部分を残すが曲輪群Iと曲輪群IIとの間は堀切5,6で遮断してある。
主郭は東側面を除いて畝状竪堀群と堀切で固めている。南尾根は風化していることもあって竪堀と堀切の区別が難しいが堀切が五重くらいあって竪堀を付属する。南西尾根は竪堀群の下方に二重堀切で遮断している。
曲輪群IIはII1と二段になったII2で構成する。II1とII2は土橋でつながった堀状地形になっているが、南側は通路に接続している。土橋の北側には石が積まれており、もともと堀切であったものを埋めて改修した結果とも考えられる。
東へ続く尾根は堀切で区画した曲輪III、IV、Vと続き、その先に二重堀切15がある。この先は自然地形に近い尾根が続き、東端に出丸VIを設けている。出丸VIは低い土塁があり周辺に畝状竪堀群、東尾根は竪堀下方に堀切を設けている。
登山道は各方面から整備されている。一番わかりやすく楽に登れそうなのは「いこいの里千石」キャンプ場からのルートで駐車場もある。
最寄り駅(直線距離)