築城年代は定かではない。「筑前国続風土記」には建久5年(1194年)宇都宮上野介重業が築いたとある。
鎌倉時代に筑前国遠賀郡を賜った下野国宇都宮氏の一族宇都宮左衛門尉家政が下向して山鹿城を築き、その一族が花尾城を築いて麻生氏を名乗ったとされる。
麻生氏はその後筑前国守護となった大内氏に属していたが、文明10年(1478年)麻生家春が没すると、山口に出仕していた麻生上総守と嫡子で花尾城にいた麻生遠江守家延との間で家督相続争いが起こり、大内正弘は軍勢を派遣して花尾城を攻めると、家延は和睦開城して、岡ノ荘に所領を与えられ岡城に移った。
その後は大内氏直属の城として天文7年(1538年)には大石兵庫助が城督として在城している。天文20年(1551年)大内義隆が陶晴賢に討たれると、相良武任が籠もっていた花尾城も陶氏に攻められ落城、武任は自刃した。
永禄2年(1559年)には麻生隆実が花尾城にいたが、永禄2年(1559年)大友氏が門司城を攻めた際に落城した。しかし、永禄4年(1561年)毛利氏が花尾城を攻略し再び麻生隆実が城主となった。
永禄7年(1564年)毛利氏と大友氏が和議を結ぶと花尾城などの諸城は大友氏に属することとなる。永禄11年(1568年)毛利氏が立花城を攻めた際、麻生隆実は毛利の軍勢を花尾城に入れ毛利方となったが永禄12年(1569年)毛利氏が立花城より撤退したことにより、隆実は花尾城を退き山鹿城に入った。
花尾城は皿倉山から北西に派生した標高351mの花尾山山頂に築かれている。現在は花尾城公園として整備されており、皿倉山や帆柱山に至るハイキングコースの経路になっている。
花尾城は山頂から東西に伸びた尾根に曲輪を連ねた山城で、現地の案内に従えば、西から、西櫓台VII、四の丸VI、三ノ丸V、二の丸IV、本丸I、出丸II、馬場III、東櫓台Xと堀切で区画された曲輪が連なっている。公園化などに伴う後世の改変もあり判断に苦しむ部分もあるが、石垣や畝状竪堀群、堀切などの遺構が良好に残っている。
この城の最大の特徴が本丸の北側面に設けられた「古井戸」と呼ばれる遺構で、登り石垣のような石塁が馬蹄形に山腹を巡り、その最下部に井戸とされる方形の窪地を残す。石塁は東側が階段状になっているが、これは公園化にともなう改変のようである(北九州・京築・田川の城(中村修身-花乱社))。
曲輪IVは削り残された岩が残されているが、古絵図によればもともとは二段の曲輪であったようだ(福岡県の中近世城館跡)。
北西山腹の花尾配水池の近くに公園入口があり、この入口付近に2・3台駐車可能である。都市高速4号線北側にある河頭山公園入口駐車場には大きな駐車場もあるのでそこから歩いて登るのも良い。
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