築城年代は定かではないが森光氏によって築かれたと云われる。雲雀城の案内板によれば、森光氏は三吉氏の家臣として当地に配されたのが始まりという。
天文13年(1544年)尼子氏が大内方の三吉広隆を攻めたときには、牛の皮城主森光景近は雲雀城主池上氏、丸山城主上里氏らとともに尼子方に加わった。
発掘調査された北郭(曲輪群II)の出土遺物からは15世紀末から16世紀前半に築かれ、以降100年ほど城として機能していたという。
牛の皮城は御調川の南岸の平地に面した標高233mの山頂に築かれており、ちょうど尾道北ICの北東に位置する。
牛の皮城は山頂の主郭部と北西尾根の曲輪群IIで構成した城で、曲輪群IIは尾道松江道によって半壊しているが、主郭部の遺構は良く残っている。
主郭部は最高所のI1から南西の尾根先I4に向かって段々に築かれており切岸も高く削平も丁寧である。土塁はないが主郭南端からI4まで山道で接続されており、これがそのまま主郭に至る導線のようである。曲輪I3とI5の間には大きな窪みがあり井戸のようである。
南西の尾根先は高い切岸下方に二重堀切1があり、その周りに畝状竪堀群1を設けている。 主郭背後、北から東側面にかけても無数の畝状竪堀群2、3で埋め尽くされているが、特に北側の畝状竪竪堀群3は上下二段になっている。この主郭背後の畝状竪堀群の上段には腰曲輪I5とI6が設けてあり、横矢をかけることができる。
主郭からさらに東へ続く尾根部分は特に堀切などは設けていないが、北西の曲輪群IIに続く尾根は浅いながらも堀切5を設けて遮断していることが確認できる。
曲輪群IIは大きく三段ほどの曲輪が北西の尾根先に向かって続いていたが、現在は最上段がわずかに残されているだけでほぼ消滅した。
残されているのは、曲輪群IIから主郭部に通じる尾根を遮断する二重堀切6、北側面に設けられた堀切8と周辺の畝状竪堀群7、そして尾根先の曲輪下方に放射線状に設けられていた畝状竪堀群9の一部である。このあたりの畝状竪堀群は現在でも深く残っている。
尾道松江道の東側の側道を南端まで登ったあたりに駐車できる。入口は不明瞭であるが、墓地脇から山に入り東の方に進んで行くと山道に接続、これを登って行くと木組みの階段など整備された山道が曲輪群IIの北側面を登って主郭方面に続く。
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