備中 楢村氏居館びっちゅう ならむらしきょかん
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慶長8年(1603年)楢村監物玄正が徳川家康より、走出村千六百石、木ノ子村四百石、合わせて二千石を賜り旗本となったことに始まる。
監物は宇喜多氏の旧臣であったが、いわゆる宇喜多騒動で浪人となり、のちに徳川家康に仕えることとなった。
楢村氏は寛永5年(1628年)監物の孫、楢村孫九郎が江戸城中で喧嘩して断絶となった。
楢村氏居館は小田川南岸の「城」という集落にあった。楢村氏は定府の旗本であったと思われ、この地には代官が居たのであろう。