正平24年(1369年)に京都から地頭職として入部した床上小松秀清が築城したと伝えられている。
小松秀清の子孫は小田氏を称して代々神戸山城主であった。
弘治元年(1555年)小田政清のときに出城として岩屋山城を築いたが、庄氏によって攻められ神戸山城も岩屋山城も攻略され、小田氏は伊予へ落ちていった。その後、庄氏と和睦して小田郷に復帰した小田政清は永禄8年(1565年)馬鞍山城を築いて居城を移した。
小田政清の子高清の頃に毛利氏に従い、小早川隆景から偏諱を受けて小田隆景と名乗ったというが、隆景の隆の字は大内義隆からの偏諱であることから、その字を与えることはないだろう。
高清の子小田元家は文禄・慶長の役では毛利元清に従って朝鮮へ渡海した。帰国後の慶長4年に安芸国豊田郡小田に転封となっている。小田元家は後に福島正則、蒲生忠知に仕えたという。
神戸山城は小田駅北方に聳える標高153mの神戸山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂にあり、主郭Iを曲輪IIが囲繞する。周辺には巨石が散らばっており、一部の切岸は岩盤を削って作られている。この主郭部のみしっかりした造りである。
主郭から東へ伸びた尾根に曲輪IIIがある。西端は一段小高くなり自然の谷を利用したような堀切3には土橋が架かっている。
曲輪IIIから東へ下ると曲輪IVがある。概ね自然地形の緩斜面尾根であるが、東端から南へ下るところに二条の堀切1、2が確認できることから、この尾根も曲輪として利用されていたと考えられる。堀切はどれも崩れて浅くなっておりわかりにくい。曲輪IVの西端部分も堀切の可能性がある。
主郭の南下に鉄塔が建っている尾根があり、ここも曲輪のようである。南端東下に堀切のような地形があるが、尾根は幅広く堀切として機能していないため類似地形かもしれない。
主郭から西背後に伸びる尾根は高い切岸になっており、尾根との間は幅広く凹んで堀切4のようでもあるが、竪堀も伸びておらず、自然地形に近い。
登口は八幡神社参道ルートと中小田ルートの2つある。八幡神社参道ルートの途中には城主小田政清夫妻の墓が移築されて祀られている。車は小田公民館か中小田公会堂のあたりに駐められる。
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