築城年代は定かではないが鎌倉初期(1192年〜1241年頃)に那須宗晴によって築かれたと云われる。
屋島合戦において扇の的を射て有名な那須与一宗隆は源氏の世になって丹後国五賀荘、信濃角豆荘、若狭国東宮川荘、武蔵国太田荘などとともに備中国荏原荘の地頭職を得て、那須宗晴が下向し小菅城を築いたが間もなく下野国へ戻った。
その後、那須頼資の三男朝資が下野国から下向し小菅城を居城として荏原三郎と名乗り、以後代々の居城となる。那須弘隆の次男光隆が中堀城を築くと、弘隆の長男資泰もここへ移り小菅城は廃城となったという。
城は東へ突き出した山塊の頂部、標高244mの小菅城山に築かれている。
主郭部は東西二段でその東下に堀切を挟んで東へ数段の削平地が伸びる。主郭から南へ続く尾根には二重堀切が残るが車道により破壊されている。
南方より車道が通じている。
最寄り駅(直線距離)