建武2年(1335年)熊谷四郎三郎入道蓮覚によって築かれたと云われる。
鎌倉で挙兵した足利尊氏に呼応して安芸国守護武田氏や毛利、吉川そして熊谷氏の惣領家も北朝方として挙兵するなか、安芸熊谷氏の庶家であった熊谷蓮覚は南朝方となった。 蓮覚は矢野城に籠城し、武田・毛利・吉川の軍勢を迎え撃ち吉川師平を討ち取るなど激闘を重ねたが、四日間にわたる攻防の末に落城、蓮覚は討死した。
文安2年(1445年)尾張国野間荘の野間重能が足利義政より矢野の地を与えられ、野間氏が保木城を居城とした。野間氏は則澄、則能と続くが、則能の後は尾張より興勝を迎えた。この四代野間興勝の時代に野間氏は最盛期を迎えたようで、尾張国から尾崎八幡宮(現在の尾崎神社)を勧請し真光寺や鷹護寺などの菩提寺も建立された。
天文23年(1554年)毛利元就が陶晴賢との対決姿勢を明確にする中、毛利家臣の熊谷信直の女を妻に迎えていた野間隆実は態度を明確にせず情勢を静観していた。しかし、天文24年(1555年)出張城主の白井房胤とともに毛利方の仁保城を攻めたことで陶氏に味方し、毛利氏とは敵対することとなる。毛利氏は主力を率いて矢野城を攻めると、熊谷信直の降伏勧告もあって野間隆実は毛利氏に降った。しかし野間氏は許されず、野間隆実ほか一族多数が討たれ、野間氏は滅亡した。
矢野城は別名保木城(発喜城)とも呼ばれ、標高593mの絵下山から北へ伸びた丘陵に築かれた山城である。矢野城は標高476mの発喜山、標高420mの矢野神社付近、そして現在矢野城の石碑が建っている標高265m付近の三つの場所に城郭遺構が残されている。 ここでは、便宜上県指定史跡として石碑の建つ矢野城を掲載し、発喜山と矢野神社付近の遺構は発喜城として掲載する。
矢野城の石碑は絵下山から発喜山、矢野神社さらに北方に降りた標高265m付近に建っている。ここには野間氏に関連するものか五輪塔と宝篋印塔の一部が積み重ねられている。
北端は東へ折れた尾根の所にあり「お馬屋敷跡」の看板がある削平地で、そこから石碑のある曲輪、さらに南方に小高い削平地があり、背後へ続く尾根には浅い堀切が設けられている。
登山道はいくつかあるが矢野天神の所から鷹ノ宮陸橋を経て登るルートが整備された登山道になっている。ただ入口が非常にわかりづらいのが難点。矢野から熊野に抜ける県道34号線沿いに「野間神社」の案内板が草木に覆われながら建っている。ここから団地の奥へと進むと直ぐに折り返して登っていくコンクリートの小路がある。これを道なりに進んで奥へ奥へと行くとやがて広島熊野道路に架かる鷹ノ宮陸橋に至る。これを越えた所が登山口。(地図)
下山は発喜山から明神山との間の谷を降りる「展望岩・陰野の滝コース」を利用した。下山ルートの写真は発喜城を参照。(地図)
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