築城年代は定かではないが承久年間(1219年〜1222年)阿曽沼親綱によって築かれたと云われる。 阿曽沼氏は下野国安蘇郡阿曾沼郷発祥で下野国阿曽沼城主阿曽沼広綱の子親綱が承久の乱の功により、安芸国荒山荘の地頭職を得た。
中世は周防大内氏、後に毛利氏に従い関ヶ原合戦後に毛利氏に従って萩に移った。
鳥籠山城は蓮華寺山から南へ派生した尾根の南端に築かれている。
鳥籠山城の遺構は標高101.9mの三角点ある部分から南側一帯に拡がっているが、後世の開墾などの影響によって多数の平段や竪堀状の溝などがあり、どこまでが山城遺構の範囲なのか判別するのが難しい。
現状で主郭となるのは南端の峰の頂部で、曲輪i-1から南東にi-4まで続き、その下は東側に向かって小さな段曲輪が続いているが、南東側は宅地造成によって消滅している。曲輪i-1の切岸は高く20m程に達する。その下方にあるのが堀1で、曲輪ii-1とii-2の間を横堀となり、南端と北端、西に向かって竪堀として落ちている。
主郭の北下には塚状地形を挟んだ土橋のような遺構があり、その先に小さな曲輪iiiの平段がある。ここから東へ平段は伸びているが、畑跡のようである。北へ続く尾根には堀切3〜堀切8に至るまで連続した堀切を設けているが、その間にある曲輪らしき遺構はivと堀9によって分断されている部分であるがほぼ自然地形である。堀9は曲輪とみなせる尾根上を浅く堀切、そのまま竪堀として伸びている。この堀だけば他の堀切とは異質である。
北端の標高101.9mの三角点のある峰は一段小高く切岸が回っているが、その上はほぼ自然地形である。北西から西、南側面に掛けて段遺構が無数にあるが畑跡のようである。北尾根に堀切はなく、塚状の地形がポツンと残るのみとなっている。
主郭に登るのは南の墓地から入るのがわかりやすい。道は狭いが、北尾根の上近くに品秀寺の墓地があり、ここだと車を駐める事ができる。墓地から尾根を南に降ればすぐ三角点のある所に至る。
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