『芸藩通志』では「三田五郎左衞門宅址 三田村岡にあり 、里人これを新城ともいふ 、」とある。また「三田村長井氏 先祖、三田少輔七郞元實、三田庄三百七十五貫を領す、 永正年中、大内義興に從ひ京攝の役に戰功あり、長子能登守元吉、其祿を襲ぎ、三田新城 に住す、天文中、毛利家に属す、二子あり、長は長井備前元秀、次は三田五郎左衛門元親 、父の祿を襲ぎ、毛利氏に、萩府に從ふ、元秀は從はずして、古川萩原城に在しが、其子六郞兵衛實正、慶長中、農民となる、七郞より今幾石衞門に至る十二代、河原屋、濱屋、川見屋、皆其同族なり、」ともある。
三田元実の子能登守元吉が三田新城に住んで毛利に属し、元吉の次男五郎左衛門元親が毛利氏の萩移封に従ってこの地を去ったが、元吉はこの地にとどまった。
三田新城は段丘の東端に築かれていた。現在権現神社の境内となっている他は田畑となっており遺構は乏しいが堀が残っている。
東、南、北の三方からアクセスできそうだが、どれも鳥居や案内などなくわかりづらい。
東は段丘下の道路の終点にある鉄板の橋をわたり、細い水路を少し北へ進むと段丘上に登る小路が整備されている。
南は民家脇の細い路地を段丘上に登る。北は太陽光発電の脇の小路を入っていくようである。
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