築城年代は定かではないが三田氏によって築かれたと云われる。 三田氏は藤原姓で永井庄七郎が祖と伝えられるが、その出自は詳らかではない。代々三田および永井を称した。
天文年間(1532年〜1555年)三田能登守元吉の頃には毛利氏に従っており、弘治2年には佐東銀山城番を務めている。元吉の後は弟の元親が家督を継いで厳島合戦などに参陣している。
元親の家督を付いだのは三田少輔七郎元実で天正19年の八カ国御時代分限帳で1220石余を知行していた。元実の後は三田五郎右衛門吉秀で朝鮮の役に従軍したが、帰国後伏見で没した。吉秀の後は三田久七郎で関ケ原合戦の後に防長二カ国に転封となった毛利氏に従ってこの地を去っている。
古川城は三篠川南岸の標高150mほどの山に築かれている。
城のある山は東西両側が急峻な谷地形となっており、主郭から北へ伸びた尾根のみが比較的緩やかになっている。
主郭は曲輪iで南北二段で南端は一段高く尾根を残しているが櫓台としては狭い。北に堀切1を挟んで曲輪ii、曲輪iiiと続いて緩やかな尾根の先端まで小さな段曲輪を連ねている。
注目するべきは主郭の西側である。東の谷下に石塁で囲まれた曲輪viiがあり、居館とも考えられるが、ここからの城道は堀切1を経て曲輪vに入る。曲輪vから曲輪ivへは石段を登るが、この東側面には崩れた高石垣跡らしき痕跡が残っており、もともとは大手として威嚇するように高石垣が築かれていたと考えられる。
主郭の南下には巨大な二重空堀があり、この堀は西の谷と東の谷を結ぶように連なり完全に南尾根から切り離している。さらに東側には曲輪とも考えられるviiiとixがあり、これも南北に続く堀で区画され、曲輪ixの東側は延々石塁となっている。
三田氏の本城は萩原城と伝わり、古川城(七郎城)はその出城とされている。しかし、現在確認できる遺構としては古川城のほうが本城にふさわしいものである。
登山口は北麓にあり入口に案内板が設置されているので行けばわかる。入口のすぐ近くに架けられていた橋は豪雨災害で流されたままであり、2019年現在では北のほうから迂回してくる必要がある。
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