築城年代は定かではないが室町時代に天野政貞によって築かれたと云われる。 天野氏は金明山城を居城とした金明山天野氏と生城山城を居城とした生城山天野氏があり、一族ではあるが別家である。 金明山天野氏は藤原氏で足立遠元の二男遠景が伊豆国田方郡天野荘を所領して天野氏を名乗ったことに始まる。遠景より四代の天野政貞の嫡男政国は、延元2年(1337年)新田義顕に従って越前国金崎城で高師泰と戦って敗れ新田義顕とともに討死する。政貞は義顕の子顕政を養育して養子とし、新田家没落後に安芸国へ下向した。天野氏は南朝方として安芸の熊谷宗直、小早川頼平らと連絡して楠木、和田などの遺臣を金明山八合目傍示山に匿ったという。
金明山天野氏は政貞・顕政・顕元・元繁・元平・元氏と続くが、元氏に子がなく、生城山天野氏の天野弘氏の二男元行(後に元連)を養子に迎えた。この元行の時に毛利氏に金明山城の背後から奇襲され追い落とされたが、間もなく奪還している。
元行の子、天野隆重は大内氏没落後に毛利氏に属して財崎城を築いて居城を移し、金明山城は土肥藤左衛門を城代とした。永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏と戦った時には豊前国松山城に籠って和睦の後に下城し、永禄12年(1569年)尼子勝久が出雲へ侵攻し富田城へ攻め入った時はこれを防ぎ、その後毛利元秋が富田城主となった時はこれを補佐した。
関ヶ原合戦後毛利氏が防長二ヶ国に減封となると周防国玖珂郡に千五百石を領して移った。
城は金明山山頂から南西に張り出した尾根の先端頂部に築かれている。
主郭は頂部にあって主軸は北東から南西方向にあり、段々と曲輪が連なる。主郭から北、南、西端から西、南西方向に伸びる尾根にそれぞれ削平地が連なる。
石垣は主郭から南へ伸びた尾根の最南端の曲輪に残っている。ここから南へ降りて行った所に金明山城の居館跡とされる「殿屋敷」へと繋がると思われるが、この道を降りていないので不明である。
県道33号線を志和堀から福富方面へ東進する。福富に入り道を降って行くと左手に石材所があって人気キャラクターをかたどった石の置物があるので、そこを左折し道なりに西へ進むと山頂付近まで到達する林道がある。歩いて登ったのだが林道は以外と良好で車で十分登ることができる。ただし、林道終着点にはプレハブの事務所があり、常々作業が行われている雰囲気があるので、離合困難な林道を走るよりは歩くほうが良いと思われる。
登山口は確認していないが、西の尾根伝いに山道があるようである。また、「殿屋敷」からも道が続いており、これを利用すれば登れると思われるがこちらも未確認である。
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