築城年代は定かではないが大塩氏によって築かれたと云われる。
大塩氏は播磨国北脇城主大塩氏の一族とされるが、どのような形で若狭に入部したのかは定かではない。大塩氏の初見は文明13の大塩賢惟で、武田氏の奉行人であった。
永禄5年(1562年)大塩長門守のとき、湯岡城主南部久才と争って敗れ、縁者である国吉城主粟屋越中守を頼って落ち、城はこのとき南部氏によって焼き払われたという。
大塩城は大光寺の背後、北へ伸びた山上に築かれており、現在は主郭に祀られた愛宕神社までの参道がついている。
大塩城は三角点のある標高134.6mの地点に築かれた南城と、そこから北へ伸びた尾根側に築かれた北城の二つの城がある。
南城が一般的に大塩城と呼ばれている城であるが、この城は折れを伴う土塁囲みの技巧的な縄張で、大塩氏のものではなく、越前朝倉氏によって築かれた城と推測されている。
南城は南北二郭、東側面に帯曲輪IIIを備える。虎口は北西済みの虎口1と東の虎口2が明瞭で、いずれも左折れで入るようになっており、虎口脇には石列もある。南背後の尾根は堀切で遮断しているが、この堀切に架かる3本の土橋をもって障子堀(畝堀)としているが、これは後世の改変である。そもそも、障子堀は大きな堀の底を移動しづらくするための障壁として築く土塁であるため、このように堀を渡りやすくするのは間違いである。
北城は曲輪Vの部分が南端に高土塁と大きな堀切で遮断しているものの、曲輪となるべき部分が未加工で、自然の緩斜面である。北端部には低い段加工で削平されたVIがあるが、この部分は城の遺構ではなく岩座など宗教的な雰囲気を醸し出している。
登山口は大光寺の本堂南側にある墓地との間にあり、そこから登って行くと愛宕神社に達する。車は大光寺の駐車場に駐めさせていただいた。
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