天文9年(1540年)武藤氏によって築かれたと云われる。
この地には加斗公文であった伊崎氏が居たが、天文年間(1532年~1555年)の武田氏の内訌で武藤氏の一族武藤友賢が稲葉館の伊崎氏を攻めてこれを降した。その後、武藤氏は背後の山に稲葉山城を築いて敵対する本郷氏に備えたという。
天正8年(1580年)本郷氏によって稲葉山城は攻められ落城したという。
稲葉山城は加斗PAの南側、標高134.8mの山に築かれている。
城は北の最高所に位置する曲輪群Iと南峰にある曲輪群IIの二郭からなる。
主郭は北峰の曲輪群Iで北と南に一段小高い土壇があり、中央I3で結ばれる。現在、不明瞭ではあるが、北西の谷間からつづら折れで登る道が曲輪I3の西中央に通じており、当時の大手道もこのあたりに通じていたのではないだろうか。
主郭の北東側面には無数の20条以上ある畝状竪堀群7が設けられている。こちらの斜面は急坂で、畝状竪堀群は北に続くやや細い尾根に沿って下方に連なり、北尾根Aの部分ではやや互い違いになった竪堀構造になっている。この西下には規模の大きな堀切5がある。
主郭の南西下にある堀切3、4の先に曲輪群IIがある。曲輪群IIは南端が一段高く南から西に土塁を伴い、南背後を堀切1、西側面に8条の畝状竪堀群2を配置する。この畝状竪堀群の東端の竪堀は長く伸び、最後は北西麓の谷間に落ちている。
主郭から南に伸びた尾根には小さな平段が三段あり、その下方にやや歪な竪堀8、南東尾根には山仕事で改変されているものの堀切9がある。
山への入口は北西麓の稲葉観音堂が目印。観音堂から東の竹林の谷奥へ入るか、北尾根側から登るのがよい。
観音堂への入口は宅地の間の道の奥にあり、駐車場はないので、どこかに駐めてくるのが良い。麓に住んでいる人は城があるのをご存知だった。
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