築城年代は定かではない。城主は青井右京亮や粟屋刑部が伝えられる。青井右京亮は粟屋右京亮の誤伝であろうか。
名田庄一帯は永正年間(1504年~1521年)から粟屋元隆が代官を務め、小浜代官として若狭武田氏のなかでも随一の勢力を誇っていた。しかし、元隆は天文7年(1538年)武田信豊の家督相続に伴って反乱を起し、武田信豊と戦って敗れ、粟屋氏の嫡流は衰退した。
小村城は田村川に面した標高220mほどの山に築かれており、現在は主郭に祀られた愛宕神社への参道が整備されている。
主郭には愛宕神社が祀られており、これによって改変を受けている可能性が高いが、主郭の周辺には石積みが多く残されている。現在の参道は南側から石段で登るルートになっているが、東端部にスロープで登ってくるルートがあり、これが本来の虎口の可能性がある。
主郭の東下には曲輪IIがあり、北東尾根下に堀切5を挟んで不明瞭で小さな平段が続いている。現在の参道との間には竪堀6があり、参道によって不明瞭になっているが、腰曲輪が二段確認できる。さらに参道の南側、東へ伸びた尾根の上にも削平地Vがあるが、東端は切岸になっておらず、曲輪として利用していたかは不明である。
主郭から西背後に続く尾根には大堀切3があり、その先に曲輪IIIがある。曲輪IIIは東側2/3くらいを土塁で囲んだ窪地にしてある。さらに西に続く尾根は堀切1で遮断するが、曲輪IIIと堀切1の間の緩斜面尾根に三条の畝状竪堀群2を配している。尾根に放射線状に畝状竪堀を設ける例は多いが、尾根上部分のみというのは珍しい。
主郭の北下には堀切4、南尾根には堀切7を経て二段の曲輪IVがある。
登山口は東麓にあり、小村城の看板が出ているのでわからやすい。看板の隣にある空き地に駐車可能である。
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