天文22年(1553年)本郷泰茂によって築かれたと云われる。 本郷氏は鎌倉御家人で若狭国大飯郡本郷の新補地頭に任ぜられ下向して本郷氏を名乗ったことに始まる。
室町時代若狭守護となった武田氏は本郷氏を被官化しようと動き、大永4年(1524年)本郷氏の領地の本郷は幕府御料所となり、本郷氏の衰退が始まる。また隣接する佐分利石山城主武藤友益によってしばしば領内に侵入され小競り合いが続いた。こうしたなか本郷氏は山城である達城を築いて対抗しようとした。
永禄年間(1558年〜1570年)の当主本郷泰栄は、織田信長に通じ本領安堵を受けている。
達城は佐分利川の東岸にある標高113.8mの山に築かれている。
城は「大城」と呼ばれる山頂部の主郭部I、「小城」と呼ばれる尾根先端の曲輪群II、そしてその間にある曲輪群IIIの3つに分かれている。
主郭部Iは標高113.8mの最高所にあり一角に忠魂碑が建てられている。山頂部が最も西下に曲輪I2、南下に曲輪I3の三段で構成されている。
南尾根には二条の堀切1、2がやや間隔を開けた設けられている。現状では尾根道で改変されて両側に竪堀が落ちる形状になっているが、堀切として機能していたもと思われる。北東尾根は竪堀群4で中央を残し竪堀を落とす。また西尾根も竪堀7のみで尾根を完全には遮断していない。
虎口と思われるのは現在の山道が接続している中央北側であるが、入口直前に竪堀5があり、後世の改変の可能性もある。
現在長応寺の境内となっているのが曲輪群IIである。周辺はコンクリートで固められたり改変されている部分もあるが、参道に沿った西の尾根と北に腰曲輪群がある。
南東背後は巨大な二重堀切で、北側には堀切から伸びる竪堀と連動して三条の竪堀群があり、合わせて五条の畝状竪堀群9を形成している。二重堀切は現在土橋として階段が設けられ、北麓からの登る参道と繋がっている。
北山腹は急坂であるが、腰曲輪の下方に短い畝状竪堀群10がある。
曲輪群IIIは曲輪IIから主郭Iに続く尾根に設けられた曲輪群で、山道によって削られている部分もあるが、土塁や堀はなく、削平した段を設けている。
佐分利川に架かる橋の所に妙見山の鳥居があり、長応寺の参道となる。本堂の裏手に回ると尾根道があり、主郭まで通じている。
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