詳細不明。城主は米森氏で大平氏に属していた。
天文年間(1532年~1555年)に大平氏は一条氏によって滅ぼされ、米森氏も一条氏に従った。
その後、長宗我部氏が台頭して佐川盆地に侵攻してくると、黒岩城主片岡光綱や尾川城種近沢将監祐清らはこれに降ったが、斗賀野城主米森玄蕃はこれに対抗した。しかし元亀2年(1571年)長宗我部氏の軍勢に攻められ落城し米森玄蕃は討死した。その後、功のあった安並但馬に与えられたが数年後の農民一揆で討たれたという。
斗賀野城は斗賀野駅の北西にある独立丘陵に築かれており、現在主郭は八幡神社の境内となっている。
山頂の八幡神社境内を主郭として平段が3、4段確認でき、下方の段は宅地や畑などになっている。
南麓の二の部公民館のところには討死した米森玄蕃の碑があり斗賀野城の案内板も設置されている。斗賀野駐在所の西側の水田のなかに「但馬塚(安並但馬の墓)」とされる石祠と五輪塔がある。
神社の参道は東麓、入口に鳥居などもなくわかりづらい。付近の道は狭く駐車スペースもないので、広い所に駐めて歩いてくるのが良い。
最寄り駅(直線距離)