築城年代は定かではないが南北朝時代に井伊道政によって築かれたと云われる。
暦応2年(1339年)井伊道政は後醍醐天皇の皇子宗良親王とともに三岳城に籠もり、南朝方の拠点となっていた。暦応3年(1340年)北朝方の高師泰・仁木義長らによって三岳城は落城し道政と宗良親王は大平城へ逃れて立て籠もったがこれも落城した。
永正11年(1514年)引馬城主大河内貞綱が尾張斯波義達と結んで反今川の兵を挙げたとき、井伊直盛はこれに呼応して三岳城に籠もったが、今川氏の武将朝比奈泰以の猛攻を受けて落城し奥山城へ逃れ後に今川氏に降った。
三岳城は標高466.8mの三岳山山頂に築かれており南北朝時代の山城らしく井伊谷川からの比高は430m程ある。
三岳城は山頂の本曲輪と東の尾根にある東曲輪で構成されており、三岳神社から続く大手道は本曲輪と東曲輪の間に通じる。
東曲輪は東西に長く途中空堀によって東西二郭に分かれ、東端に堀切を設けている。
本曲輪は山頂にあり、西側の斜面には雛壇状に帯曲輪があり、下部の二段は外側に土塁を設けて横堀状にしている。土塁は一部内側と外側に石積が施されている。一番下の段は横への移動を防止するためか縦の土塁がある。この近くに開口部があるがこれは後世の改変とみられているようだ。
中腹の三岳神社まで車道が続いておりここから本曲輪と東曲輪の間の鞍部までは比高100m程で10分程度で登ることができる。
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