天正元年(1573年)伊平直種によって築かれたと云われる。案内板によれば井平氏は、寛元3年(1245年)四郎左衛門直時のときに井伊家から分家して祖となったという。
元亀3年(1572年)甲斐の武田氏の侵攻によって小屋山城が落城、井平直成は討死して一時断絶となったが、天正元年(1573年)井伊直平の子直種が井平氏を継いで殿村に居館を築いたという。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めで直種の嫡子弥三郎が井伊直政の家臣として参戦して討死し井平氏は断絶した。
井平城は伊平幼稚園の北側にある標高137m付近に築かれている。大河ドラマの影響によって駐車場や見学路などが整備されており見学し易い山城となっている。
井平城とされる場所は『静岡県の中世城館跡』では殿村館(今城、城山)として掲載されており、背後の標高293.1mにある小屋山城の一ノ木戸付近に位置するとされる。井平氏ははじめ小屋山城を詰とし、後に井平城を詰として築城したのであろうか。居館とされる場所は南麓にあったという。
井平城は標高137m付近に一軒の民家があるが、この辺りを主郭として南に伸びた東西二つの尾根とその間の谷間を城域とした山城とされている。ただ実際に見学路を歩いてみると尾根はほぼ自然傾斜し、畑など後世の改変もあるが、曲輪としての造成はあまり感じとることができない。現地で土塁と看板が出ている地形も城郭遺構のような感じは受けず、唯一西側尾根の側面にある横堀状地形から竪堀となっている部分が城郭遺構らしさを見せる場所であった。
主郭が民家となっており北側の尾根背後は見学できなかったが、案内板にある図面を見る限り堀切などので遮断されているわけではなさそうである。
南麓に居館跡の案内板があり、その先から山に登る車道を進むと駐車場がある。
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