築城年代は定かではない。
大永6年(1526年)細川高国が細川尹賢の讒言を信じて香西元盛を自刃させたとき、元盛の兄弟である波多野稙通は八上城、柳本賢治は神尾山城に籠もって細川高国に叛いた。柳本賢治は細川高国の軍勢を撃退し、翌年には京へ攻め上り桂川原の戦いへと続く。
天文22年(1553年)丹波守護代八木城主内藤国貞は波多野氏との対立中に八木城を攻め落とされ、本目城で討死した。この本目城が神尾山城と考えられている。
天正7年(1579年)八上城主波多野秀治・秀尚兄弟は織田の部将明智光秀に開城・降伏した。その後、波多野兄弟が一時この本目城に連れてこられたと伝えられている。
神尾山城は山腹にある金輪寺の北背後に聳える標高440m程の山に築かれている。
金輪寺の本堂裏からすでに城域で、山頂の主郭まで南北約450m程の規模がある。東側面には城郭遺構というよりは坊の跡らしき平坦面が残っている。
南北450m程の規模があるが、傾斜しているのは南半分で北半分は殆ど平坦である。南側の傾斜している尾根筋には段々に連なる曲輪群があり、土塁や堀切などが残されている。お寺から続く通路は東山腹を登りながら続いており、途中に石積された段を通る。
北半分はほぼ平坦で広大な平地が拡がっている。南側はまだ途中に土塁などで区画された部分があるが、北は何もなく続いている。主郭の西側に虎口らしき窪地があり、その下の西側面に連続竪堀がある。
山腹にある金輪寺まで車で登ることができる。本堂の東側から山へ通じる道がある。
最寄り駅(直線距離)