永和3年・天授3年(1377年)森美作守頼永によって築かれたと云われる。
天正7年(1579年)織田信長の部将明智光秀が八木城の内藤氏を攻めたとき、その先鋒として森美作守が八木城裏手の間道から攻め入ったので八木城は落城し、内藤氏は滅亡したという。
滝ヶ嶺城は桂林寺の西に聳える標高440m程の山に築かれている。
なだらかに東へ伸びた尾根の先端に築かれており、西尾根は堀切で遮断している。 主郭は中央に一段小高くなった曲輪で内部は藪が激しいが、周囲に低い土塁が付いている。この主郭を取り囲むように二郭があり、堀切に面した西端が櫓台となり石積が露出している。櫓台の南下に横堀があり、西の堀切とは結合せず削り残しの土塁となっている。
二郭の南東側に虎口があり、そこから東下の腰曲輪に通じる。腰曲輪もまた南に虎口があり、東尾根を遮断する堀切に通路が伸びている。この腰曲輪の東側面にも石垣が残されている。
下山に利用した本梅町井出側に続く標高352mの尾根筋を降った標高320m付近(地図)に砦跡のような段遺構がある。堀切がなく切岸も小さいのでハッキリしないが土塁らしきものも残り出城のようである。
数掛山城から尾根続きでアクセスしたが、倒木が多く意外と苦労する。下山に利用したルートは出雲神社裏の林道から尾根上まで登れば尾根道があるので比較的登りやすそうである。(出てきた所)
最寄り駅(直線距離)