築城年代は定かではないが内藤氏によって築かれたと云われる。 丹波の内藤氏は永享3年(1431年)丹波国守護職細川京兆家の守護代として、罷免された香西氏に代わり丹波に入封した内藤備前入道信承が始まりで、この頃に八木城が築かれたと云われる。
天文22年(1553年)内藤国貞が三好長慶と結んで八上城主波多野氏と対立中、波多野方の三好正勝・香西元成によって八木城を攻められ落城、国貞は討死した。その後、松永久秀の弟松永長頼が八木城を奪還する。長頼は国貞の娘を娶って内藤宗勝と名を改め、八木城主となった。
内藤宗勝によって衰退していた内藤氏の勢力も回復してきたが、永禄8年(1565年)黒井城攻めで討死した。宗勝の子がキリシタンとして著名な内藤如安(ジョアン)である。八木城は天正7年(1579年)織田の部将明智光秀によって攻められ落城し、内藤氏は滅亡した。
内藤如安については、足利義昭に従った後、小西行長の重臣となり、関ヶ原合戦後は前田利家の庇護を受けたが、江戸時代にはいってキリシタン追放令が出されるとマニラに追放された。
八木城は八木駅の南東に聳える標高330mの城山に築かれている。 丹波国三大山城(八上城・黒井城)の一つに数えられており、現在は遊歩道が整備されている。
八上城は山頂の主郭から東西南北に伸びる四方の尾根に曲輪を展開し、西は鞍部を越えて烏嶽と呼ばれる部分にも城郭遺構が残る。また大手とされる北東の天神口付近には屋敷群跡が残っている。
主郭はやや東へ張り出した山頂にあり、南西に土塁を設け、南端に櫓台が付いている。主郭部には石垣造であったようで、北や西の側面に石垣が部分的に露出している。主郭の北下に帯曲輪があり、そこから北東に二段の腰曲輪が続いている。
主郭から北西に続く尾根は北と南西に伸びていくが、この分岐点に土塁の付いた曲輪がある。北尾根に降って行くと「内藤五郎」、「並河重郎」の名が記された北の丸へと続く。ここは北端に土塁が付いた曲輪が続き、途中に堀切が設けられている。
南西側に行くと「内藤和泉」二の丸と記された曲輪があり、さらに南西に降りていくと「八木玄蕃」と記された曲輪に至る。この辺りは小さな段曲輪を連ねたものである。
妙見宮への分岐を越えて西へ向かうと北西と南西に続く「烏嶽 内藤法雲」と記された曲輪群がある。南西端が最高所でそこは櫓台が付き背後に石積がある。南西尾根は堀切で遮断し、その背後も平段が続くが切岸がなくなっており、城外のようである。北西には段々と平段が続き、北端部も一段小高くなり、西尾根を堀切で遮断している。
整備された道は付いていないが、主郭から南へ伸びた尾根には「内藤土佐」と記された曲輪群がある。北の鞍部が少し削られて堀切のようになっており、その先に平段が付いている。
大手道を登り始めて最初の尾根上から北東に伸びた尾根に築かれているのが「御茶屋・対面所 大八木但馬」と記された曲輪群で、南西側に土塁と堀状の凹みがあり、北東側に平段が付いている。
北麓にある東雲寺が八木城主の居館跡と伝えられている。(写真は鶴首山城を参照。)
登山道は八木小学校の南西にある春日神社の西側で、京都縦貫道のガード下を潜ると登山口がある。ガード部分は大手門風になっている。(地図)
入口に駐車場はないが、案内板の所か入口付近に駐車可能である。遊歩道を妙見宮側に降りると龍興寺の南側に降りてくることができる。
最寄り駅(直線距離)