築城年代は定かではない。天文19年(1550年)頃の城主は波多野与兵衛尉秀親が城主であり、天文22年(1553年)松永久秀によって攻められている。
数掛山城は半国山から南東に派生した尾根の一つ、標高540m程の山に築かれている。
北東から南東方向に伸びた尾根に築かれており、北西背後の尾根を堀切で遮断して南東側を城域とする。北端は堀切に面して分厚い土塁が付き、その南の曲輪が一段高く主郭のようである。主郭の南側には自然石を両側に立てた虎口があり、その南方は東西二段に分かれて南方に曲輪が続く。南端は自然石が密集した一段小高い曲輪を中心に周囲に平段が付いている。
北西背後の堀切を挟んだ北の頂部にも若干の平段遺構が残されている。また、南西の谷間を降りた所にも平段があり、『京都府中世城館跡調査報告書』では曲輪跡としているが、南の谷を降りた所にある千軒寺跡に近いものであろうか。その西の尾根上にも平坦面があり若干段遺構が残るが、切岸はない。
千軒寺跡は南の谷沿いにあり、沢を挟んで両側に石垣の段が残り、沢の南側には基壇らしき方形の土壇が残されている。本梅町中野にある永徳寺(地図)の七重石塔(元は九重石塔)、本梅町西加舎的場にある延福寺(地図)の十三重石塔はこの千軒寺跡にあったものだという。
本梅小学校の北にある郵便局脇から南の谷沿いに入って行く作業林道がある。これを登っていくと千軒寺跡に至る。林道はこの少し上にある砂防ダムで行き止まりとなり、そこから谷沿いに登る山道があるが、これもすぐに消えてしまうので、山を目指して登っていくしかない。
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