築城年代は定かでは小畠氏によって築かれたと云われる。
丹波の国人領主として代々続いた小畠氏は、織田信長の部将明智光秀が丹波へ入国したときに案内役を務めたことが知られる。
元和5年(1619年)但馬国出石藩主小出吉親は兄吉英の出石再封により、園部二万八千石へ転封となった。このとき吉親は、この小畠氏の屋敷に逗留して陣屋を構える城地の検分を行っている。当初はこの宍人の地に陣屋を構えようとしたが、小麦山の地に園部陣屋が築かれ、完成するまでこの地に逗留した。この功によって小畠太郎兵衛は園部陣屋に屋敷と三百石が与えられ移った。
宍人館は本梅川西岸にある台地の東端に築かれている。 一般的に宍人城と呼ばれるのがこの宍人館であるが、南西背後に当初の詰城と見られる宍人城があることから『京都府中世城館跡調査報告書』にしたがって宍人館として紹介している。
宍人館は本梅川に向かって緩やかに伸びた台地の東端に築かれており、谷を挟んで南北に城郭遺構が残されている。
主郭部は谷の南側で、台地の東端に主郭を配し東を除く三方に大きな空堀を巡らせ西に虎口を開いている。西側には横矢の張り出しを持つ二郭がある。
主郭は空堀と同様に東を除く三方に土塁が巡っているが、土塁と空堀の間には帯曲輪程度の平段が付いている。土塁の南端には櫓台がある。二郭は周囲を土塁が巡っているが、外側に空堀はない。北端部は屈折した土塁で横矢掛かりになっているが、二郭への虎口ははっきりしない。
谷を挟んで北側にも土塁囲みの曲輪がある。南北に長い長方形に近い曲輪で南と西に土塁と空堀が付いているが、北側は不明瞭である。南中央に平入虎口があり、南西隅が南へ張り出して櫓台となり横矢が掛かる。この他、北西側や北東にも櫓台状の高まりがあるが、不明瞭である。