築城年代は定かではないが戦国時代に葛山氏によって築かれたと云われる。
永禄12年(1569年)甲斐の武田信玄はそれまで同盟関係であった今川領に侵攻を開始、北条氏康は今川氏を支援する。武田氏に駿河を追われた今川氏真は掛川城へ逃れるが、さらに徳川家康に攻められ、北条氏康を頼ることとなり戦国大名としての今川氏はここに滅亡する。
このとき駿東は北条氏の勢力下に置かれ、深沢城には北条綱成が配された。元亀元年(1570年)武田氏が深沢城を取り囲むと、北条氏政が後詰にきて本陣にしたのがこの平山城(千福城)である。深沢城が落城すると、氏政は清水新七郎に在番させて城の普請をさせている。
元亀2年(1571年)北条氏康が没して氏政が家督を継ぐと、氏政は武田氏と和睦、同盟を結ぶこととなり、駿東は武田氏領となった。こののち、葛山氏に武田信玄の子信貞が養子に入り、その後見人となっていた御宿友綱がこのあたりを領したが、千福城を利用したかどうかは不明である。
千福城は普明寺の北背後にある丘陵に築かれており、現在は散策路が整備されている。
主郭は最高所の曲輪Iであるが、周囲がやや削られ、側面には短い竪堀状地形があり、西端は堀切状になっており、甲相同盟によって破却されたときの痕跡とも考えられる。
主郭Iから東の山腹側には広大な曲輪Vを馬蹄形に囲むように曲輪が伸び、西側面には横堀7が確認できる。全体的に見て虎口ははっきりしないが、曲輪VIにある堀切状の部分は虎口と考えられる。
主郭から北へ伸びた尾根は巨大な竪堀に続く堀切5で遮断されているが、ここから北の尾根にも曲輪VIII、IXの遺構がある。いずれも傾斜を伴う曲輪であるが、北側には巨大な横堀1、2、南西側には竪堀3、畝状竪堀群4と四条の竪堀が確認できる。その間の斜面は近年のものと思われる崩落で消滅しているが、平成7年作図の水野氏の縄張図でも竪堀は存在していなかったようである。
南麓にある普明寺の本堂西側に登口があり、普明寺に駐車可能である。
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