築城年代は定かではないが葛山氏によって築かれた。 葛山氏は藤原北家大森氏の支流で、大森惟康の次男惟兼が駿東郡葛山に住んで、葛山氏を名乗ったことに始まる。
伊勢宗瑞が伊豆の堀越御所を急襲して足利茶々丸を討った時、今川氏から援軍として駆けつけたのが葛山氏で、その後、伊勢宗瑞の次男氏時を養子に向かえた。
今川氏が没落すると武田氏に属し、武田信玄の六男が葛山氏の名跡を継いで葛山信貞となのった。しかし、武田氏も滅亡すると葛山氏も没落した。
葛山城は葛山館の北、仙年寺の北背後に聳える標高270m程の山に築かれており、現在見学路が整備されている。仙年寺には葛山氏代々の墓所が残っている。
主郭Iを中心に西下に曲輪II、東下に曲輪IIIがあり南側でIIとIIIは繋がっている。 虎口は主郭西側の虎口1、曲輪II南西の虎口2が確認できる。
東西両尾根をともに二重堀切1、4で遮断し、北は畝状竪堀群5、南は整備道でわかりにくくなっているが横堀で、その外側から麓近くまで伸びる長い竪堀2、3を設けている。
南の横堀には不明瞭ながら竪堀状地系A、Bが確認でき、もともと北側と同じく畝状竪堀群であった可能性がある。麓まで長く伸びる竪堀2、3はその間側の切岸が高くなっている。
西尾根側には西曲輪、東尾根側には東曲輪、大手曲輪という案内がでているが遺構は明瞭ではない。仙年寺の東側の尾根先に袖曲輪と呼ばれる土塁と浅い溝で区画された曲輪が残っているが作図するのを忘れていた。
一般的には仙年寺からついた階段を登るのが良いだろう。仙年寺の前の葛山集会所に駐車場がある。
大手口は東の尾根先にあり、地主の方のご厚意によって小さな駐車場が作られている。
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