築城年代は定かではない。 伊勢宗瑞(北条早雲)は、妹婿今川義忠が文明8年(1476年)戦死した後、家督相続争いをまとめた功によって、はじめて城主となった。
宗瑞は堀越御所の内乱に付け込み、堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると、伊豆国韮山城を築いて居城を移した。
天文18年(1549年)に今川義元によって、小規模な城郭から改修され、武田、北条、今川によって度々争われた。今川義元が桶狭間合戦によって織田信長に討たれた後、武田氏は駿河国に侵攻すると、それに対して北条氏も駿河国に侵攻し興国寺城を落としたが、元亀2年(1571年)武田氏と北条氏は和を結び、武田氏一門の穴山梅雪の家臣保坂掃部介が城主となった。
武田氏が織田氏に滅ぼされると徳川家康の所領となり、関ヶ原合戦後は天野康景が一万石で城主となったが、康景は百姓を殺害した家臣の引渡しを拒んで西念寺に蟄居し改易となり、興国寺城は廃城となった。
興国寺城は北の山塊から南の舌状に伸びた丘陵の一つに築かれている。現在は国指定史跡として整備されている。
主郭は穂見神社のある所で、南を除く三方に高土塁を巡らせ、北背後を大空堀で遮断している。北側中央には伝天守台があり、石垣や礎石が残されている。この天守台は北背後の大空堀に対して張り出しており、横矢掛けとなる。
本丸の南に二の丸、三の丸があり、三の丸の南端は道路に分断されているものの、弧状になった土塁が現存している。
本丸の北背後には北の丸があり、現存していないが北側には丸馬出があったようである。なお二の丸にも丸馬出があったことが確認されている。
県道の根古屋交差点の所に整備案内図が出ている。ここから東へ進んで北へ入って行くと駐車場があるが、以前きたときと変わっており、年々変化しているようである。
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