宝永3年(1706年)大久保教寛によって築かれた。
大久保教寛は相模国小田原藩主大久保忠朝の二男で、元禄11年(1698年)忠朝の隠居にともない兄忠増が家督を継ぐと六千石を分知された。宝永3年(1706年)江戸城西の丸若年寄に任ぜられて五千石の加増を賜り、併せて一万一千石となって諸侯に列した。このとき松長に陣屋を構えて松長藩となった。
宝永6年(1709年)本丸若年寄に任ぜられ五千石を加増、併せて一万六千石の大名となった。
享保15年(1730年)教寛が隠居して嫡男教端が家督を継ぐと、弟教平に三千石を分与して一万三千石となった。
天明3年(1783年)教翅のとき、陣屋を松長から相模国愛甲郡中荻野村へ移し荻野山中藩となったが、松長陣屋は飛領地管轄のため幕末まで維持された。これと同時に定府大名であったが半年ごとに参勤交代する大名へと昇進した。
松長陣屋は旧東海道の北側、神明塚古墳と蓮窓寺との間に築かれていた。
現在陣屋跡は宅地化が進み遺構はほとんど残されていないが、民家の庭先に六角井戸が残されているという。ただ残念ながら見つけることはできなかった。かつては蓮窓寺の山門として陣屋門が移築現存していたが、現在はこれも解体されて現存していない。