築城年代は定かではないが永仁年間(1293年〜1298年)八木岡肥後守高房によって築かれたと云われる。 八木岡氏は芳賀氏11代芳賀高俊の四男高房が八木岡の東館に居住し、八木岡氏を名乗ったことに始まる。
南北朝時代には北朝方に属し、暦応2年・延元4年(1339年)南朝方の春日顕国によって八木岡城は攻略され、城柱の惣領以下一人残らず誅したという。
天文14年(1545年)八木岡貞家は常陸国下館城の水谷正村と戦って下山和泉に殺され、翌天文15年(1546年)水谷氏に領地を奪われた。
城は五行川の西岸にあって江川が五行川に合流する地点の北側にあるが、現在残っている部分は城の西側の一部であるという。石碑の建つ北側から入ると高土塁があり、堀にそって弧状に曲って南へ伸びている。ほんの一部しか残っていないようである。