築城年代は定かではないが南北朝時代に高根沢兼吉によって築かれたと云われる。 高根沢氏は宇都宮景綱の弟盛綱の末裔という。
観応2年・正平6年(1351年)兼吉は宇都宮公綱に従って足利直義と上野国那波荘の合戦で討死した。 その後、益子宗之が高根沢氏を再興したが、慶長2年(1597年)宇都宮氏が改易となると廃城となった。
城は安住神社の南西にある丘陵に築かれていた。
本丸・二の丸部分が残されていたが本田技研のテストコース造成によって消滅、「とちぎの古城を歩く」によれば、堀跡がわずかに残っているらしいが、その場所はわからなかった。
安住神社から南西方向、丘の麓の道路沿いに石碑が建っている。また、地図で示している場所はその石碑の位置である。