築城年代は定かではない。治安2年(1022年)に多田出羽守満政の五男山田忠国とその兄忠重が山田御亀屋の城に住んだという記録が『多田社記』にあり、この頃に築かれたものと推測されている。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は山田清左衛門景明で、この頃に落城したと云われる。
山田城は山田川に沿って東へ伸びた山塊の標高360m付近に築かれている。
堀切で区画された土塁囲みの曲輪I(北西)と曲輪II(南東)の二つの曲輪で構成されている。主郭と複郭の関係は明確ではなく、どちらも主郭となりえるような構造で、便宜状やや高い北西側をIとしている。
北東端を遮断する堀切は南北両側に竪堀として伸び、南側面に2条、北側面にも1条竪堀状の溝があるが、竪堀としてはやや違和感があり、遺構かどうか不明である。中央の曲輪を分断する堀切2は北側のみ竪堀が伸び、南側へは伸びない。南東端には堀切3があるが浅く窪んでいるだけで、虎口6に続く通路とも考えられる。
北西の曲輪Iは北西端に高土塁を設け、残りは低い土塁で囲繞する。虎口は東側に3箇所確認できる。虎口1は南に開口し土塁はやや食い違い、外側の道は堀切2の南端までスロープが続く。虎口2は内桝形状に低い空間があり、外側は堀切2から北へ伸びる竪堀のほうに斜面が続く。虎口3は堀切2に面した空間Aとの出入り口となる。
空間Aの存在は一つは木橋で曲輪IIと結ぶことが考えられるが、虎口4と結ぶには高低差があり、候補としては曲輪IIの土塁の外側にある犬走りと結ぶことだろう。空間Aに土塁がついていれば、虎口2と4を結ぶ木橋に対する横矢掛けとして有効であるが、現状土塁はなく意図は明確でない。
南東の曲輪IIもIと同じく北西端に高土塁を設け、残りは低い土塁で囲繞する。土塁線はIより直線的で北辺には僅かな折れがあり、東端付近には張出構造も認められる。虎口は北西虎口4、南虎口5、東虎口6の3箇所に存在する。
虎口4は曲輪Iと結ばれる虎口と考えられ、堀切2から伸びる竪堀に木橋を架け、虎口2と通じていたと考えるのが単純である。虎口5はやや内折れ土塁で、外側にはスロープが続き、東端から南への張出が横矢となる。虎口6は不明瞭ながら東尾根側に出ることができ、浅い堀切3のところに通じている。
整備された道はないが、歩きやすい山なので、東端の尾根先や垂水城を経由して行くこともできる。
一番早く登るには、南の谷にある溜池のところから登るルートで山腹から虎口5に続くつづら折れの山道がついている。
最寄り駅(直線距離)