築城年代は定かではない。城主は大谷川左近太夫橘光兼で、貞治元年・正平17年(1362年)金丸城主の小亀氏とともに中院源少将を奉じて南朝方に属した。光兼は大谷川城、長男六郎左衛門光邦が春日城、次男太右衛門光盛が平山城、三男左近右衛門盛国が種子城に籠もって、金丸城に入った中院源少将を固めた。しかし、南朝方の細川清氏が細川頼之との戦いに敗れ討死すると、この戦いで三男盛国と四男三郎兵衛光高も討死した。戦いに勝利した細川頼之の大軍が金丸城に攻め寄せると、これに対抗できず中院源少将は自刃して果て、光兼はじめ光邦・光盛らも討死した。
大谷川城は亀越池に面した丘陵に築かれていた。「大谷さん」と呼ばれ、大谷川氏(大谷氏)の墓と伝えられるものがこの丘陵の山腹に残されている。城跡とされる部分は池に面した尾根下で、曲輪跡とおぼしき平段と土塁が確認できる程度である。
亀越池の西側を通る道路から作業林道が入っており、ここから山に入ることができる。(地図)
大谷さんと呼ばれる墓は自然石を組み合わせてもので、林道を進み山頂方面に登らず、山腹を少し登り、下りはじめた辺りに残されている。(地図)
城跡は大谷さんの所から南西の谷下へ降りた辺りにあり、道はついていない。
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