築城年代は定かではないが大永年間(1521年〜1528年)に高野瀬隆重によって築かれたと云われる。 高野瀬氏は、高野瀬城を居城としていたが、佐々木六角氏の命によって肥田城を築き、高野瀬城とともに高野瀬氏の城となった。
高野瀬氏は代々佐々木六角氏に仕えていたが、高野瀬秀頼の代に浅井氏に付き、永禄2年(1559年)佐々木六角氏に攻められた。このとき六角義賢は城の周囲に土塁を築き、宇曽川・愛知川から水を引き入れて肥田城を水攻めにした。しかし、土塁が崩れてしまい水攻めは失敗に終る。
浅井氏が織田信長によって滅亡すると、高野瀬秀隆は柴田勝家に仕えるが天正2年(1574年)越前一向一揆に敗れて自害した。
その後、蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となったが長谷川秀一が朝鮮の役で病没すると廃城となった。
現在は市街地や水田となって大半の遺構は残っていないが、土塁と水路となった堀跡がが東側と南側に残されている。 また城石碑が崇徳寺の西にある肥田町公民館の所に建っている。
宇曽川に架かる高橋を肥田町へ渡った所に「肥田町歴史ロマンロードめぐり」の案内地図が出ている。
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