築城年代は定かではない。
応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため、幕府が送り込んだ佐々木正尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作山城の前身とも云われる。
永禄11年(1568年)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと云われる。
箕作山城は観音寺城の南東にある標高324.8mの山頂に築かれており、標高372mの箕作山ではない。
主郭には鉄塔が建ち、その周囲は錯乱されていて城の遺構なのか後世の改変なのかよくわからない部分が多いというのが第一印象で、明瞭な堀切などはなく、山頂部の周辺に段遺構が見られる程度である。鉄塔のある主郭の西側面に石垣が少し見えており、これが一番の見所である。
北麓にある貴船神社の参道脇から山頂に通じる登山道があり、北東の尾根先付近に石碑が建っている。駐車場はないが、参道入口付近に駐車できるスペースはある。
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