天正12年(1584年)蘆名盛隆によって築かれたと云われる。 黒川城主蘆名盛隆が伊達氏への備えとして築いた番城で、三瓶大蔵に百五十騎を添えて守らせていた。
天正13年(1585年)芝関の松本備中が伊達氏に内応し、伊達氏の家臣原口左馬助らが桧原城から攻めてきたがこれを撃退している。このとき伊達政宗も檜原から侵攻して萱峠(大塩峠)まできたが、その先へは入らず引き返した。
天正17年(1589年)摺上原の戦いで敗れた蘆名義広は実家である常陸へ逃れ、事実上蘆名氏は滅亡し、柏木城も廃城となった。
柏木城は国道459号線沿いにある北塩原郵便局の南方に聳える標高510m程の山に築かれている。現在は村指定史跡となっており、主郭部はきれいに整備されている。
柏木城は山頂の主郭から南北に伸びた尾根に曲輪を配し、西に大手、東に搦手の虎口がある。桝形虎口や馬出、石垣や鏡石など多彩な遺構が残っている。
主郭は西を除く三方を土塁で囲み、北西部に虎口を開く。南西側に主殿跡とされる区画があり、石がおかれて小さな門跡が残る。主郭の北から東下に帯曲輪があり外側に土塁が付く。この帯曲輪の南端に搦手である内桝形虎口があり、鏡石や石垣で固められている。
主郭の南には土橋で繋がった土塁囲みの小さな曲輪があり、その下側に一段曲輪が付いて南に虎口を開く。
主郭の北側は帯曲輪から木橋で繋がった馬出がある。馬出は外側の半円形の土塁と浅い空堀で丸馬出のような形状をしており、馬出からの虎口は南東隅に小さな土塁を設けた虎口が付いている。馬出の北側にある北曲輪は馬出とほぼ同じ高さの曲輪で、周囲に低い土塁が付いている。
北尾根へと続く遺構は畑などになっているため余り見ていないが、石積石垣と記されている部分には確かに石積があるが、城の遺構なのかよく分からない。
下山は大手虎口へと降りる道を選択したが、途中で道はなくなる。大手虎口跡と思われる部分には若干石が露出しているが、はっきりと虎口だというような遺構は発見できなかった。
国道459号線沿いにある北塩原郵便局が目印で、そこから南西の山腹に向かって登っていくとすぐに六郎屋敷跡である北塩原村商工会があり、そこに縄張図入りの案内板が設置されている。
城跡へ近づこうと車を走らせてみたものの道がわからなかったので、結局案内板の所へ戻り、そこから北曲輪群を経て西曲輪群へと続いている山道を登っていった。城内には随所に案内がなされているのだが、肝心の城跡への道がまったく示されておらず、農道がすぐ東下まで付いているものの、たどり着くのは結構難しい。
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