築城年代は定かではないが平安時代末期に藤田政行によって築かれたと云われる。藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。
花園城は藤田氏代々の居城であったが、天文元年(1532年)藤田泰邦のときに天神山城へ移り、支城の一つとなった。
室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力を伸ばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に向かえ用土城に隠棲し用土氏を名乗った。
藤田(北条)氏邦は永禄年間(1558年~1570年)頃には鉢形城を築いて居城としていたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原北条攻めで落城した。その後、藤田氏邦は前田利家に仕えて金沢へ移ったが家系は断絶した。
花園城は荒川の北岸にあり東西に伸びた丘陵の西頂部に築かれている。岩盤を削った大堀切や麓まで伸びる竪堀が圧巻で、横堀や石積、そして屈曲した虎口など見どころ満載の山城である。
主郭は山頂西端にあり石碑が建っている。尾根上は堀切で区画して曲輪II、III、IVと連ねているが、堀切は南へ竪堀として長く伸びており、南山腹にも段々と曲輪を造成している。
主郭Iは西の堀切1が西側面から南へ屈曲して竪堀となり、東の堀切2も南へ横堀と曲がり、北を除く三方を堀で囲む。東の曲輪IIとは木橋で繋がっていたようで、曲輪II側に橋台と思われる土壇が残る。
曲輪IIは小規模で南東隅が一段低くなり、東の曲輪IIIと木橋で接続されていた可能性があるが、場所ははっきりしない。
曲輪IIIは南に枡形虎口が開口する。ここから南山腹へ下ると更に虎口があり、横堀10と連続竪堀9の間を通って麓に下ることができ、これが現在の登山道の道筋となっている。
曲輪IVは曲輪IIIとの高低差が大きく東に向かって傾斜する。東端には土塁があり、堀切5で東尾根を遮断している。この堀切5から南へ伸びる竪堀は諏訪神社東側まで落ちている。
善導寺の西200m程の所にある諏訪神社が登口で入口に案内がある。 車は脇に路駐しても良いが、近くのゴミステーション脇の余白にも駐められる。
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