築城年代は定かではないが天文年間頃(1532年〜1555年)に牧兵庫によって築かれたと云われる。
牧兵庫は子の牧菅兵衛とともに高田城主三浦貞久に仕え、天正3年(1575年)備前国虎倉城主伊賀久隆が真木山城を拠点とした際にこれを攻撃して真木山城を落とす軍功を挙げている。
天正7年(1579年)宇喜多氏と毛利氏が敵対すると、宇喜多氏の家臣江原兵庫親次が寺畑城に籠もったが、吉川元春の攻撃により寺畑城を明け渡して篠向城に退去した。
大寺畑城は標高540.4mの寺畑山山頂に築かれている。山頂の主郭を中心として南北に伸びる尾根に曲輪が配されており、東尾根の先端部には出丸があったということだが、現在ここにはテレビ中継施設が建っている。
主郭は東西に長く、東端に櫓台状に一段小高くなった小郭があり、三角点がある。 曲輪は緩やかに傾斜しながら南尾根方向に伸びていく。南尾根には小段が連なり、一部東側に犬走状の通路がある。堀切は浅く幅の狭いもので東西両側が竪堀になって落ちており、これに面して弓なり状に土塁が設けてある。そこからさらに南へ下るともう一条堀切があり、この堀切も同様になっている。
主郭から北へ続く尾根にも小郭が続き、先端部付近に一条の堀切がある。この堀切は東斜面は急峻な地形のため、西側のみ竪堀となって落ちる。この下の曲輪は堀切に面した部分が土塁状になっている。
久世駅の北にある宮芝公園を目指す。公園から少し北に歩いて行くと西の谷間に向かって入って行く林道がある。この林道が山頂まで続いているが、道は非常に悪く車で登るのは難しい。
林道は途中いくつかの分岐がある。基本的には一番はっきりした道を進めば良いが、川を渡って分岐する所は川を渡らず右側へ進む。この分岐のあとコンクリート舗装された道が谷間を登り、最後に二俣の分岐があり右側へぐるりと回っていく道を進めば山頂に至る。
最寄り駅(直線距離)