永禄12年(1569年)宇都宮勘解由道直によって築かれたと云われる。
宇都宮道直は下野国宇都宮氏の後裔で、織田信長に敗れて阿波へ逃れていた所を周参見城主の周参見主馬太夫に招かれて当地へ移り、神田城を築いて居城とした。 神田城主となってからも信長に対しての恨みが残り、石山本願寺と結んで織田軍と戦ったが、秘かに神田城に戻って武士を棄てて下野したという。
神田城は北へ伸びた丘陵に築かれており、現在は登山道が整備されている。
南北二段で南端最高所が主郭I、北下に曲輪IIがある。主郭南端には神社が祀られていたが倒壊してしまっている。
主郭は南端に巨石を利用した高土塁、北端にも石碑のある高土塁がある。北下の曲輪IIも広く、北から東にかけて土塁が巡る。虎口は明確ではないが、曲輪IIの南西隅部分が傾斜が緩く崩れた石段のようになっている部分もあることから、横堀2の南端あたりからAに上がり、主郭北端西側を上がっていた可能性がある。
北尾根は三重堀切1で外側二条が竪堀として長く伸びる一方一番内側の堀切は横堀2になって曲輪IIの西側面を覆う。横堀には石積、仕切り土塁が一箇所ある。
主郭の西側面は畝状竪堀群3、主郭から南背後に続く尾根三重堀切4で遮断する。さらに南へ続く尾根には堀切5、6、7とあり、鉄塔のたつあたりは自然地形で緩斜面となっているが、明確な曲輪としての遺構はない。
すさみ町域や隣接する旧日置川町域には畝状竪堀群や横堀を備えた城がたくさんあるが、主郭と複郭で横堀と竪堀を使い分けているような城は確認できず興味深い。
南紀高校分校の前の道を北へ進むと持宝寺がある。このお寺の墓地から津波避難の道標に従って登っていくと金比羅神社があり、そこから主郭まで整備された山道が付いている。
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