『甲斐国誌』に落合村に「新左衛門屋敷」と伝える場所がある。 武藤氏は武田氏の親類衆で長らく途絶えていたが、大井信達の子が武藤家を継いで武藤信堯と名乗った。しかし、天文19年(1550年)信濃の村上義清との戦い(砥石崩れ)で討死したという。
その後、真田幸隆の三男昌幸が武藤家の養子となり「武藤喜兵衛」と称していたが、兄の真田信綱・昌輝がともに長篠の戦いで討死したため、真田の家督を継いで真田昌幸となった。
武藤三河守の屋敷は阿弥陀寺付近にあったと考えられるが、正確な場所は不明である。阿弥陀寺は加賀美遠光が崇拝した阿弥陀堂を整備したものとされ、武藤氏の菩提寺であった。