築城年代は定かではないが鎌倉時代に狩野茂光によって築かれたと云われる。
堀越御所の足利茶々丸を攻め滅ぼした北条早雲は、明応年間(1492年〜1501年)初頭に狩野城の狩野道一を攻めるべく、その出城であった柏久保城を攻め落とした。明応6年(1497年)には、狩野氏が柏久保城に攻め寄せたが、大見城から大見三人衆(佐藤藤左衛門広頼・梅原六郎左衛門宣貞・佐藤七郎左衛門)が狩野氏の背後を突き狩野氏を撃退した。その後、引き続き城の普請が命じられている。
柏久保城は大見川と古川の間を東西に伸びる丘陵の頂部に築かれている。
主郭は山頂にあって東西に長く西が一段小高く、北条早雲城山砦址の石碑が建っている。西側は余り平坦ではないが、東側は削平され南と東に土塁が残っている。この土塁は内側が石積されている。主郭の東端から北東下に一郭あり、この曲輪も南側に土塁が付く。主郭の西下は馬蹄形の小段と堀切が一条ある。
城の北側は比較的急斜面であり、土塁が付いていないが、北条早雲はこの北側の谷から攻め寄せたといい、「新九郎谷」と呼ばれている。
修善寺中学校の南を東西に走る県道12号線沿いに柏久保城の道標が出ている。登山口は中学校の北東に位置する一宮神社にあり、向かって右側に道標がでている。
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