築城年代は定かではないが平安時代末期頃に大見平三家政、あるいはその子大見小藤太成家によって築かれたと考えられている。
明応6年(1497年)には、北条早雲が攻め落とした柏久保城を取り戻そうと、狩野氏が柏久保城に攻め寄せたが、大見三人衆(佐藤藤左衛門広頼・梅原六郎左衛門宣貞・佐藤七郎左衛門)が大見城より出陣して狩野氏の軍勢の背後を突き柏久保城を守った。
大見城は大見川と冷川との間にある山塊が川に沿って北へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。
大見城は大きく主郭部と二郭からなり、主郭は公園として整備され二郭は諏訪神社の境内となっている。
二郭は主郭の北下にあり、諏訪神社の境内となっている。この部分はいくつかの段があったように見えるが、かなり手が入って形状はわかりづらくなっている。
主郭は山頂にあって南北に長く、北に向かって段が付いている。南背後は堀切で遮断し西下に二段の帯曲輪、北下には裾を巡る空堀があり、通路のようにも見える。西側には竪堀が二条ほどあり、そのうちの一つが遊歩道で階段になっている。
北の麓は字「城ヶ平」で実成寺の所には居館があったとされ、現在も境内に残る石塁はその当時のものだと考えられている。また寺には大見平三家政の墓が移されている。これはもともと中伊豆中学校付近にあったもので、中学校付近は八幡館(大見氏館)があった所という。
県道59号線沿いにある實成寺あるいは「伊豆大見の郷 季多楽」が目印。「伊豆大見の郷 季多楽」の駐車場から県道沿いに北へ少し歩くと山側に鳥居があり案内板が設置されている。この参道が登山道。
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